配置販売(置き薬)の歴史 
有限会社イシイ薬品ハイチネット
新潟県魚沼市青島643-9
ハイチボックス
救急犬きゅう太
 ホーム 日本置き薬協会   ブログ  連絡先

明治時代の売薬人姿売薬について(商業倫理のお手本) 

越中富山といえば薬売りという言葉が返ってくるほど、富山の薬売りの姿は全国各地の人びとの心に深く根を下ろし、親しまれています。
江戸中期、富山藩からおこった個性的な地域産業が、薬という単一商品をもって全国マーケットに手をひろげ、周辺の加賀藩領越中商人を巻き込みながら、一世を風靡するほどに発展しました。そして医療産業が国策と一体化している今日まで300年、脈々として命脈を保っています。
それは商業倫理にもとづく、人と人との結び合い、助け合いから生まれる信用、信頼の商いだからです。
マーケティングの極意とは、単に打算、計算、実利を頭に置くお金が最大という思想でなく、それを超えたところに儲けがあり、事業を永続させることができます。
富山の薬売りには、先用後利懸場帳、などの商業精神をしみじみと知らされる言葉があり、先人の仕事に学ぶページを運営します。
顧客名簿は、「懸場帳」という。また集金高は「懸高」、顧客は「懸方」という。「懸」は配置を意味します。そして懸場帳の所有者は「帳主」と呼ばれています。懸場帳は我々の業界では経営の継続をあらわし、「暖簾価値を持つもの」として、不動産同様に扱われています。

薬の祖「役ノ行者」  薬の歴史と配置薬の沿革(薬の年表) 

先用後利

配置販売の特徴として今も昔も変わらないことが、「先用後利」という言葉の象徴されるシステムです。
これは、各家庭へ薬を預けておき、次に廻ってきた時に使用した分だけ代金を集める。つまり、先に利用してもらい、後で利益をいただくとう意味です。
このシステムは、各種の薬をいつでも手元において置ける安心感と、使った分だけ支払えばよい無駄のないお金の使い方を考慮された、消費者本意の理想的なシステムといえるでしょう。
配置薬は、病院や薬局があまりなかった時代、人々の健康を守るために大変重要な働きをしました。しかし、当時の状況で先用後利のシステムを導入するには、売薬さんと顧客との長い付き合いと信用があってはじめてできることではないでようか。

懸場帳(かけばちょう)

得意客に関する情報を記したデータベースです。
売薬さんた廻る地域を「懸場」を呼び、訪問先の住所、名前、使用薬の種類、使用量、回収薬から前回までの集金高、されには家族構成からその健康状態に至るまでを記して生まれたのが懸場帳です。
売薬さんは、毎年、年数回得意先を訪問します。家族の健康や地域の話を繰り返すうち、単なる顔なじみ以上の親しい関係が生まれてきます。話の中から、相手の健康を一番に考え作り上げられていく懸場帳とういうデータベースは、得意客に内緒で集めた情報ではありませんから、いうなれば心の通ったデータベースであり、信用の暖簾(のれん)ともいえるものなのです。
また、懸場帳から書く訪問先の無駄な在庫の所持や回収薬も最小限におさえられ、より一層顧客の要望に答えることが可能となりました。
現在でも情報管理は非常に重要ですが、当時の薬売りの人々はすでにそれを行っていたのです。

マーケティングの極意

情報網の整っていない時代、多くの人々は情報の入手を口コミによる情報しか頼るものはありませんでした。
そんな時代に、お得意さんたちは、全国を廻る薬売りさんからの面白い話、珍しい話を聞くのを楽しみにしていました。
また売薬さんは各地の特産品などをお得意さんにおまけとして持参するようになりました。
こういったおまけは全国の情報を知らせてくれるものとして非常に喜ばれ、それがきっかけで人と人、物と物の交流が始まることも珍しくはなかったといいます。

富山藩

富山藩(とやまはん)は、越中の一部(おおむね神通川流域)に領地を持った藩で、加賀藩の支藩である。藩庁は富山城(富山市)。藩主は前田氏。領地は10万石、実質的には8万石程度だったとされる。
2代正甫は製薬に興味を持ち、薬の製法を領内に広め、売薬業の基礎を築いた。
1871年7月の廃藩置県によって富山県となった。同年11月に旧加賀藩領の礪波郡と新川郡を併せて新川県となり、1872年9月には射水郡も編入して越中が一つの県となる。1876年4月に一旦石川県に合併されるが、1883年5月に越中4郡を再び分けて富山県を設置し、現在の富山県の領域が確定した。

戻る

役ノ行者像薬の元祖 役ノ行者について 

役ノ行者は、聖徳太子薨去(こうきょ)14年目、時の帝舒明天皇(34代)即位6年正月元旦、大和国葛上郡茅原郷、高賀茂家邸宅(現在の御所市茅原吉祥草寺)に御誕生、幼名を小角(おずぬ)と呼ばれ修験道の開祖てある。

 賀茂族は、葛城地方の豪族であり葛城山麓に居住、高賀茂の姓を賜わり、司霊者であると共に護国の名族であった。

 当時の大和には、三輪山麓に住む三輪族があり、賀茂族も共に出雲族で、大和に移住し、三輪氏は三輪神社に大国主を祀り 賀茂氏は葛城高嶋神社に、その子の阿遅鉏高日子根(あじすきたかひこね)を、そして其の後御所鴨都波(かもつは)神社にその弟の事代主(ことしろぬし)を奉斉され、大国主は親神であり阿遅鉏高日子根は開墾豊穣の神で、事代主は神霊を司る神であり、この神を祖神とする賀茂氏は祖神の栄光に誇りを以ってこの地方を支配ていたのである。

 役ノ小角は、斯うした大豪族の名門に母、白専女(しらたらめ)が夢のお告げで懐妊遊ばされ(舒明天皇5年3月28日)「虚空にー物あり、形は金杵の如く光明赫(こうめいかがやき)たり、遍(あまね)く十方を照し展転(てんてん)し降って口に入る」と依って翌6年正月元旦 大邸宅の産室に出生されたのである。

役ノ小角は、その少年時代は一般の子供と違い7才にして叔父願行より孔雀明王の神呪を相傳禀け、10才の春には元興寺に入り慧灌僧正より得度受戒(とくどじゅかい)、佛法を学び16才にして葛城山に3年間練行を重ね、19才より大峯の連山にわけ入り苦修練行を続けられ葛城、大峯6年間に亘って神を求め更に22才の夏には生駒山南麓、鳴川の秘境(現在の元山上)に於て御修行24才の時には法力を以って、藤原鎌足の病を全快に導き斉明天皇の4年4月5日に(25才)箕面山の滝窟に於て龍樹菩薩より灌頂(かんじょう)の秘法を禀けられ、全国を回峯して山に祈り万民を救わんが為の祈誓を捧げられ最後に母の恩に報わんが為、大峯山上に干塔婆を建立して供養の後、大宝元年6月7日御年68才を以って箕面山天上ヶ岳より昇天されたと伝えられて居る。

戻る

薬の歴史と配置薬の沿革(薬の年表)

年代 主要事項 付記
古代
天然の草根木皮
単味→複味
神話、大国主の命と少彦名命
国づくり・療病の方
大国主の命と白兎
古方(和方)
前後漢
中国の医薬学が確立
漢方
朝鮮半島(新羅・百済)の医学
大陸の文化(薬物医術)入る
538年
仏教伝来
552年
医術・薬物の渡来
飛鳥時代
598年
聖徳太子(厩戸皇子)推古天皇に進言
薬物は民を養う要物なり、厚くこれを蓄うよう
611年
天皇、群臣を伴い宇陀地方へ薬狩り
(5月5日)
5月5日を毎年薬日と定めた
(菖蒲の節句)
701年
天武天皇、大宝律令の制定
医薬の制度
大学、典薬寮、薬園師、薬園生を置き学生を教育
役ノ行者(小角)
山岳仏教の祖
陀羅尼助(オウバクエキス)
エキス製剤の始め
奈良時代
754年
唐の名僧 鑑真、来朝
唐招提寺(奈良・西ノ京)
奇効丸
丸剤の始め
756年
正倉院 御物
多数の薬物貯蔵
現在、尚、効果を失っていない。
鎌倉時代
1240年
西大寺(奈良)豊心丹
売薬の始まり
室町時代
南北朝時代以来、戦乱のため社寺が荒廃
復興資金のための施薬から売薬を始める
寺院が荒れ、民間に移行
家伝薬(陀羅尼助)として温存、進歩した。
江戸時代
1683年
富山藩2代目前田正甫公、反魂丹の調製
岡山の医師万代常閑の伝授
1690年
江戸城において三春藩主秋田河内守の
腹痛を治して販売権を得る
「先用後利」を教えた
富山配置販売の始まり
1730年
森野薬草園(奈良県大宇陀町)
御所今住 蘇命散・三光丸
奈良の配置薬の始まり
甲賀 神教丸・万金丹
日野 感応丸
滋賀県の配置薬の始まり
鳥栖・田代地区 万金膏
鹿島地区 唐人膏
佐賀県の配置薬の始まり
1866年
仲間取締議定書連邦帳
現各都道府県協議会の前身
明治時代
1870年
売薬取締規制
1872年
売薬業者へ鑑札
1874年
医制
1877年
売薬規則
西洋医学万能時代に入る
1883年
売薬印紙税
業者反対運動
1886年
売薬印紙交換規則
大正時代
1914年
売薬法改正
1926年
売薬印紙税法廃止
業界全盛期にはいる
昭和時代
1933年
この頃より大陸に進出
薬学校の設立(昭和5年)
各生産県においては配置員の資質の向上をはかる
1942年
売薬営業整備要項
昭和13年 国会総動員法による
1943年
薬事法制定
「売薬」の名称が消えた
1944年
国会において売薬にかえ「家庭薬」とする
メーカー等の企業合同販売規制
一戸一袋の実施
配置地区の割当を行う
1945年
終戦 業界復旧
1947年
薬事法の制定
1951年
都道府県協議会設立(1951~1952)
1961年
薬事法大改正
配置販売業の定義
1975年
製薬工業組合連合会組織
中小企業近代化促進法の業種指定
1976年
GMPの実施
医薬品製造並びに品質管理に関する規範
1982年
日本配置家庭薬商業組合設立
現代
2005年
日本置き薬協会設立
2006年
薬事法改正
登録販売者の新設

戻る